二代目三波伸介・私の喜劇人生

私の喜劇人生~母の話



初代・三波伸介夫人であり
私、二代目三波伸介の母である。

ある意味、
母は親父や私よりも「有名人」な
余り知られていない母の事を
記したいと思います。

二代目三波伸介


母の話
母の芸名は「河井洋子」
昭和九年に横浜で生まれました。
母は生涯、横浜弁が直りませんでした。
戦後、すぐSKD松竹歌劇団養成科に入るも家庭の事情で断念。
神田の緑ヶ丘音楽舞踊学校の特待生として入学。
緑ヶ丘音楽舞踊学校では財津一郎さん達と一緒でした。

卒業後、奨学金を早く返す為に日舞ショウの世界に。
新宿ムーランルージュの最後の研修生として入団。
新宿ムーランルージュ閉鎖後、赤羽公楽劇場に移りました。

ここで役者として入って来たのが
後の渥美清さん。
渥美清さんは母を妹の様に可愛がってくれたそうです。

その後、母も渥美清さんも浅草に移ります。
母は浅草ロック座の日舞ショウでスターとなります。
この時、母の相手役として初舞台を踏んだのが
後の大コメディアン・東八郎さんです。
母は文壇の大物作家・永井荷風先生に可愛がられ
スター街道を爆進します。

この時、親父は浅草奥山劇場にいましたがニアミスでした。
浅草ロック座の隣は浅草花月劇場で
そこにはてんぷくトリオのメンバーである
戸塚睦夫さんが剣劇役者としていました。
戸塚睦夫さんとは当時から知り合いのようでした。

母は浅草ロック座、浅草フランス座でスター座長として活躍しました。
そして新宿フランス座の杮落しの為に新宿に移ります。

ここでようやく未来の伴侶である
初代・三波伸介と出会います(^-^)

新宿フランス座では母の方が先輩になります。
しかし親父は母に
甘えるのが上手かったのか
本性だったのか分かりませんが(笑)
母に頼り切っていました。

月末になると親父は新宿の路上で
母の楽屋入りを待ちます。

路上に立つ親父を見て母は
「何かあったの?」と聞きます。
「一緒に楽屋入りしてよ」と親父。
不思議な気分で楽屋入口に行くと
楽屋入口前に食堂の大将が待ち構えています。

食堂の大将が「三波さん、食事のツケ払ってね」と言います。
親父は母に「洋子ちゃんお願い払ってよ」と言います(笑)
母は「何で私が食いしん坊の伸介のツケ払わなきゃなんないのよ!」
と言いながら母は払ったそうです。

当時はスター踊り子とコメディアンでは
月給が十倍から二十倍違ったそうです(笑)
母はスターですから高給取りです。
「食堂のツケどころか洋服の月賦まで払わされたわよ!(笑)
でもね、その後、お父さんには何百倍、何千倍も幸せにして貰ったから! お金じゃないのよ!」
と豪快に笑っていた母。

昭和30年代前半。
フランス座の楽屋入りの話を書きましたが…
親父と母はまだ付き合ってもいませんでした(笑)

その頃、新宿フランス座では
レビュウ・ショーの他に
幕間のコントや軽演劇に注目が集まってきました。

コメディアンの代替りが始まり
軽快な動きと喋りで人気を博す石井均さんと
とにかく、芝居が上手い名優石田英二さん、
そして初代・三波伸介が
「近い将来のスターコメディアン」
と云われていました。

その後、石田英二さんは浅草東洋劇場開設に伴い、
そちらの座長格として迎えられ萩本欽一さん達と過ごします。

石井均さんは独立して隣の新宿松竹文化劇場で一座を組みます。
一座旗揚げには新宿フランス座から戸塚睦夫さんがついて行き、
一座には伊東四朗さんも入って来ます。

新宿フランス座では
初代・三波伸介がコメディアンの座長格になりました。

その頃、母は浅草フランス座に請われて戻りました。
せっかく座長格になったのに親父は
「あ~っ浅草に移動したいな」と
母に言い出します(笑)

母は「座長になったのに何を言い出すのよ!」と押しとどめます。
それなのに新宿から浅草にプラプラ母に会いに来る親父。
そして又々、突然に
「洋子ちゃん、新宿にいないから チョット大阪に行って来る」と言って
大阪劇場に行ってしまいます。

巷間でいわれている
所謂、「おとぼけガイズ」を結成する為に
玉川良一さんに誘われ大阪に行った事になってますが…
真実は少し違ってます(笑)

親父と母と当事者の一人である
Wけんじの東けんじさんから聞いた話ですから
間違いないと思います(笑)

大阪に行ったのは「先回り」だったのです。
実は母は大阪OS劇場に行って
中田ダイマル・ラケットさんや
芦屋雁之助・小雁さんと
ショーを組む噂が出ていました。

浅草で母と組めないなら
「先に大阪に行って待っていよう」
との考えだと親父は言ってました。

案の定、親父のおとぼけガイズは
大阪で人気者になります。
当然、大阪の大手プロダクションは
親父をスカウトします。

江戸っ子役者である親父が
関西でも愛されたのは
この頃の活躍が大きいと思います。
関西は「一度、応援すると決めたらとことん!」
と言う感じですからね(^-^)

凄いスカウト合戦の中、
親父は首を立てに振りません。
中には驚くばかりの大金を
目の前に積んだ会社も。

だって大阪に来た目的が目的ですからね(笑)
勿論、大阪でも一所懸命にやった結果で人気者になったのですが…。
目的は母を待ち構える事ですから(笑)

目論みは当たり母は大阪に来ました。
もう一度言いますが
二人はまだ付き合っていません(笑)

さて親父と母の大阪生活!
どうなりますか?
親父は大阪・大国町の質屋さんの
二階に下宿してました。
母は天王寺近くに部屋を構えました。

大阪生活

さて大阪で舞台生活を始めた母。
横浜生まれの母にとって慣れない
関西生活は不安がいっぱい。

当時、既に大物であった
中田ダイマル・ラケットさんの
お二人は母に物凄く優しくしてくれました。

喋りも芸も抜群に面白い!
大物なのに心優しいダイマル・ラケット師匠の事を母は
「大物は威張ったりしない!」と
尊敬していました(^-^)

芦屋雁之助・小雁さんは同年代。
大阪に不案内な母を大切にしてくれたそうです(^-^)

親父はその頃、大忙し。
テレビ番組「大劇アワー」も始まり
おとぼけガイズは人気者に。

多忙極める中、大阪劇場から
OS劇場の母の楽屋に電話を入れる親父(笑)

「大国町の下宿に会いに来てよ」
「伸介さん、あんた忙しいんじゃないの?
大体、なんであたしがOS劇場に出てんのを知ってんの?」

当時はネットなんてありませんからね。
でも東京にいる時から大阪に行く情報を掴んでた親父もスゴイ(笑)

それでも大国町の下宿に行ってあげる母も人が良い(笑)

親父の下宿に来て
大阪での生活を心配する母。
「ちゃんと御飯たべてんの?」

江戸っ子の親父は関西の薄味料理に慣れていません。
「鰻屋に関東醤油をボトルキープして、鰻に醤油掛けて食ってる」
呆れて母は結局、下宿に通って
親父の食事を作るハメに(笑)

ついでに心配した母は聞きます。
「食堂とかのツケはあんの?」
モジモジする親父(笑)
「あんのね!全くもう‼」
母は又々、親父のツケを払います。

母は舞台で大阪に来てるのに
伸介の面倒を見にきたのか?
と、自問自答したそうです。

そんな大阪生活が続き…
しかし、まだ親父と母は付き合っていません(笑)

母が東京に戻る事になりました。
親父は、おとぼけガイズ絶好調です。

「私は東京に帰るから、大阪で頑張るのよ!」
母は親父を激励します。

「うん、分かった。お世話になったから大阪駅まで見送りに行くよ」
親父は母を送りに普段着、下駄履き姿で
駅入場券を買って大阪駅のホームに行きます。

発車まで母の座席の横に座り 話込む親父。
間もなく発車のアナウンス。

「あんた、早く降りないと発車しちゃうわよ!」
「大丈夫だよ。いざとなったら窓から降りる」

ホームに鳴り響く発車ベル‼

「降りなさいよ!」
「やだ‼」
!(◎_◎;)「やだっ、ってあんたどうすんのよ」
「洋子ちゃんと一緒に東京帰る!」

母は
「はあ何言ってんのか、分かってるの?
大阪の舞台はどうすんの?」
「玉川さんとケンちゃんがいるから何とかなるでしょ」

東京行発車で~す!

あぁ遂に列車は動き出す(笑)

「帰るって…あんた下駄履きでしょ…んっもう!どうすんのよ」
「何とかなるだろ、ワハハ」
何と言う大胆な行動!(◎_◎;)
とにかく母と東京に帰りたかったと言う親父。
母も可愛い目をして言う親父を
置いて行けなかったと言ってました。

二人を乗せた列車は一路東京へ。

車掌さんが切符を拝見~と来ます。
親父の切符を見て
「おやっ?入場券ですね。どうなさいますか?」
「東京までの切符にお直りしてくれ」
「承知しました。では東京までの追加運賃お願いします」

「洋子ちゃん、払ってくれる」

母「………(-_-;)」

それでも母は払いました(笑)

二人は仲良く東京に帰りました(^^)

帰京

二人を乗せた長旅列車は
夜明けの東京駅に着きます。
列車の中で話が弾んだ訳でもなく
親父はひたすら高鼾で寝ていたそうです(^-^)

母は東京駅から実家に帰ります。
親父はどうするのか?

母「あんた、これからどうすんの?」
父「う~ん、とりあえず新宿に顔出してみるかな?」

当時、小田急線沿線に実家があった母は新宿乗り換えですから
お節介にも新宿へ付いて行きます。

新宿の芸能社に顔を出すと
戸塚睦夫さんと伊東四朗さんが
驚き顔で固まってます(笑)
戸塚さんが
「三波ちゃん、大阪じゃないの?」
父「今日、洋子ちゃんと帰って来た」
戸塚さんと伊東さんは
マジマジと親父と母を交互に見ます。
「むっちゃん(戸塚さん)勘違いしないでよ‼
勝手に伸介が着いて来たんだよ!」

純真な戸塚さんは、そんな母の言葉にお構いなく、
又、コントを一緒にやれる喜びでいっぱいです。

戸塚さんと伊東さんはその当時は
新宿フランス座の隣の松竹文化劇場に出てました。
でも夜のキャバレーでのコント営業は
昔馴染みの間柄で一緒にやってました。

親父が東京に居ない間は
伊東さんとコンビでやっていたのです。
その仕事は「三波・戸塚コンビ」
として取っていたので
「暫くは便宜上、三波伸介を名乗れ」
と伊東さんは戸塚さんに言われ
伊東四朗さんは暫定的に
「三波伸介」を務めていました(笑)

つまり伊東四朗さんは
私より「三波伸介」では
先輩にあたります(笑)

母は親父に言います。
「今日からどうすんのよ?早く仕事始めたら?
すぐには劇場に戻れないんだから。
今からむっちゃんと伊東ちゃんと三人で組めば?」

この提案に戸塚さんも伊東さんも喜びます。
親父もやるかっ?と言います。

この瞬間、
後のてんぷくトリオが誕生します。
でもこの時は
「三波・戸塚・伊東トリオ」
でした。結構、テキトーです(^-^)

母と一緒に居たい思いで
東京に戻り、
着いた途端に運命が拓き
トリオ結成に相成った親父。

でも…まだ親父と母は
付き合ってません(笑)

紆余曲折を経て
親父は新宿フランス座に戻ります。
母は浅草フランス座に行っておりましたが…
親父の色々な画策で
新宿フランス座に戻ります。

新宿フランス座時代

新宿フランス座は当時、二週間に一回出し物が替わります。
ある日、舞台初日だと言うのに
まだお芝居の台本が出来てきません。
大体の設定は出来上がっているので
舞台装置や衣装は整えられています。

役者陣はカンカンに怒っています。
「ここのところ、台本が出来るのが遅過ぎる!今日は初日だぞ!」
二週間に一回ですから作家さんも大変だと思いますが…。
やっと台本が出来てきましたが
何と開演一時間前‼!(◎_◎;)

役者陣は怒り露わに
「後、一時間でどうやって稽古して台詞を覚えるんだ!
今日は皆で台詞覚えないで出てやろう!」
と、意見がまとまりました。

舞台にはプロンプボックスなる物があり、そこから舞台監督さんが
台詞を口づてで伝える場合があります。
初日はプロンプボックスで乗り切ろうと云う訳です。

本日は誰も台詞を覚えていません。
只一人の役者を除き。
それは初代三波伸介です。

たった一時間で台詞も動きも全て覚えて出て来ました。

終演後、母も含めて役者陣は
親父の約束破りを問い詰めます。

親父はニタニタ笑っているだけで
そんな事は取り合いません。

母は最初は怒っていましたが
「いや、間違っているのは私達で正しいのは伸介だ。
プロなら例え一時間しかなくてもお客様がいるならやらなければ…。」

この瞬間、母は親父を意識したそうです(^-^)

「この人、偉くなるかも…」
母は直感したそうです(^-^)

「間違っているのは私達で正しいのは伸介だ」
「この人、偉くなるかも…」
母はそんな言葉を頭の中で
繰り返し考えていました。

初日を無事に乗り越え
母は思い切って親父を
食事に誘います。
それまで付き合ってもいないのに
ツケを払ったり
下宿に御飯作りに行ったりしているのに…
この晩、食事に誘うのは
母にとっては思い切った行動なのです。

そうです。
母から誘うのは初めてなんです。

食事の誘いに親父は勿論OKです。

楽しい食事の時間を過ごし
いつしか終電も無くなりました。

冷たい空の下、
少し寒そうにしていた母に
親父は着ていたコートを
そっと母の肩に掛けてあげます。

親父はなけなしのお金を
財布から出して
母の為にタクシーを止めて
乗せました。

「じゃあまた明日ね!」
親父はそう云うと
母の乗せたタクシーを見送りました。

母はタクシーの後部座席から
親父の見送る姿を見ていました。

こう書くと純愛ドラマみたいですが…(笑)

後に親父にこの話を聞きました。
「こん時は、お母さんの気持ちが俺に動いた!と思った訳だ、なっ?
チャンスってえのは、そうはねえのよ!
だからここはしとつ(ひとつ)
思い切り紳士に振舞わねぇとイケねぇやと考えっち訳だ」
(一部・江戸弁のママ)

なけなしのお金を使い
親父は電車も無く
トボトボと歩いて新宿から椎名町の
下宿に帰ったそうです。

「ハックショ~イ‼」

そうです(^-^)コートは母の肩に掛かっています(笑)

ちなみに親父の椎名町の下宿の
隣のアパートは
あの漫画家で有名な
「トキワ荘」でありました(笑)
才能ある人達って近くに住むのですかね~?

腹ペコ

新宿から椎名町まで
歩いて帰った親父は
ラーメン屋台の前を通りました。
途端にお腹がグーッと鳴りました。
母と食事をしてきたばかりですが
何故か余り食が進まず
緊張が解けた今、
急にお腹が空いたのです(笑)

タクシー代を母に渡してしまったので
当然、財布は空です(^^)

「あの時のラーメン屋台の匂いは忘れられない!」
と、親父は云ってました。

人気者になっても
よく変装して評判のラーメン屋台に
行っていた親父(笑)
作業ジャンバー姿で
頭に手拭いを被って
一緒にラーメンを食べに行きましたが
屋台のオヤジさんから
「あれっ三波伸介さんでしょ」
と聞かれても
「違う人違いだ」と親父(笑)
「そんな事無いよ。その声!その格好は衣装ですか?ロケの合間ですか?」
「違う俺は三波伸介じゃない」

親父は本気で言いますが
あの巨体と声は変装でも
隠せません(笑)
かえって目立ちます(笑)

余談になりましたm(_ _)m

翌日、親父が楽屋入りすると…
豪華なお弁当箱が
親父の化粧前に置いてあります。
中身は親父の好物でいっぱい。

お弁当の作り主は
当然、母です(^-^)

昨夜から腹ペコの親父は
俄然、喜びます(笑)

母が親父の楽屋に顔を出します。
「伸介さん昨日はありがとう!」
「こちらこそお弁当ありがとう!」
母は笑って
「私と付き合えば、もう食堂のツケためないで済むかもよ」
親父は
「んっどういう事」
母はニッコリしながら
「私が毎日、お弁当作ってあげるから」(^-^)

母は大阪生活で親父の御飯を
作ってあげてましたから
親父の好物は心得てます。

親父は素直に
「うんそうする」\(^o^)/
母は
「うんそうしなさい」(^∇^)

ここまで来て
やっと付き合う事になった2人(笑)

後に浅草の興行プロモーターだった
K社長の談話によると
母と親父が付き合うとは思ってなかったそうです。
最初は親父が母を好きだった様ですが
途中から母がお弁当を作りはじめた
辺りから
母の方が親父に夢中になっていったそうであります。

K社長がナイトクラブでの
ショータイムの仕事を母に頼んでも
「これから明日の伸介のお弁当用の芋の煮っころがしを作るから時間がない」
と断られた様です(^-^)

後に親父は
「俺が太ったのはママのお弁当のせいなんだ‼」と語っていました(笑)

やっと付き合いはじめた親父と母。
2人の間に伸一少年(私)が生まれるまでは、まだまだ年月を要します(笑)

生放送

めでたく付き合う事になった2人。

劇場での舞台公演の合間に
別の仕事も入って来ます。

時はテレビ草創期です。
NHKも民放も
まだ局制作の番組は少ない時代。
アメリカのテレビ番組を輸入して
日本語のアフターレコーディング
つまりアフレコや
日本語を「アテる」に由来する
アテレコが全盛時代です。

ここで重宝されるのが
アドリブが利くコメディアンや
舞台俳優達です。

親父はアメリカのアニメ番組の
アテレコを数々こなします。
この時代の人達は
アフレコやアテレコは
「役者の仕事の一環」
と云う意識が強かった様です。

現在の様に「声優」と云う
確立した職業になっているのとは
感じが違うのでした。

コメディアンと新劇舞台俳優が
ここで接点を持つ訳です。

子供の頃の私には
コメディアンである親父と
新劇舞台俳優さん達の接点が
とても不思議でした。

例えばケンちゃんシリーズのお父さん役で有名な牟田悌三さんや
ルパン三世でお馴染みの
山田康雄さんとも親しかったのです。

今、考えれば
アニメ番組のアテレコで一緒に仕事をしていたのですね。

さて当時のテレビドラマは
何と!生放送だったのです。

親父より先に
生放送ドラマの出演話が
母に回って来ました。

母は子役で「銀の鈴」と云う
児童劇団にいました。
ちなみに親父は「東童」と云う
児童劇団出身です。

母は子役で東宝映画などに出ていましたが
テレビドラマ、しかも生放送は初めてです。

「どうしよう!勝手が分からない」
と不安な母に
「大丈夫!俺達は毎日、生の舞台をやってるんだ!舞台と同じくやれば良い」と親父。

でも本当は親父より先にテレビ出演するのに気が引けていた母だったのです。

母は無事に生放送ドラマを
やる事が出来たのでしょうか?

笑い出す


テレビの生ドラマに出演の為
母はテレビ局に向かいます。

台本の中に「笑い出す」
と云うト書きがあり
練習していました(^^)

なんとなくピタッとくる
笑い方が出来ない母。
クオリティに満足していません。

テレビ局に向かうタクシーの中で
ひたすら笑い方のパターンを研究します。
「ワハハハ!」(^O^)
「うふふふ…」(^。^)
「ギャハハッ」(^○^)

本番直前まで様々考えます。
散々タクシーの中で笑う母。

「お客さん…大丈夫ですか…」
とタクシーの運転手さん(笑)

\(//∇//)\ありゃ母は赤面(笑)

「どこか具合悪いんですか?」
親切な運転手さんは
何か痛みを紛らわす為に
カラ笑いを母がしていたと
勘違いしてたのです(笑)

本番は無事に終了して
番組の評判も上々でした。
次の出演オファーも来て
結果は良かったのに…
母は浮かない気分です。

舞台は代役が立っていますので
劇場には戻らず母は新宿のバーに立寄ります。

昼間のタクシーの中での間抜けな自分と
親父より先にテレビ出演してしまった
もどかしさから酒を呑んでいたのです。

余談ですが、母の酒の強さは
ハンパではありません。
私の友人で母を知っている方は
皆、承知してますが…(笑)
詳しくは後述しますが
私は芸能界と云う世界にいて
数多、色々な業種の方とお会いしてますが…
まだ、母より酒を飲んだ酒豪に
お会いした事がありません(笑)

話を戻しますm(_ _)m

新宿のバーで一人呑んでいた母。
やりどころない気分で
相当、酩酊しており
バーのママさんもバーテンダーさんも
どう慰めようと思案してます。

母はカウンターで寝てしまいます。

そこへ劇場がハネた(終了した)
親父がやって来ました。
酒を飲まない親父には
バーは無縁な場所です。

「どうも三波です。迎えに来ました」
ニッコリ笑って親父は
母の上着を肩に掛け母を連れて帰りました。

後日、このバーのママさんと
バーテンダーさんに話を伺った事があります。
「あの時、人の手を借りるのが何より嫌だったお母さんが、
お父さんが迎えに来て素直に帰りましたからね。
これで二人は結婚するんだろうと思いましたね。」

二人は一緒に住む事になりました。
母は世田谷の実家を出て
親父は椎名町の二畳一間の下宿を出て
二人で新宿のアパートを借りました。

勿論、敷金礼金前家賃は
母が出しましたが(笑)
これで二人の生活が始まります。

二人暮らし

新宿のアパートで
二人の生活が始まりました(^^)

夜のキャバレー回りで稼ぎはじめてきた
後のてんぷくトリオも 上手くいってます。

親父は母と結婚する意志を固めたのです(^-^)

父方の祖父、つまり親父の親父である
倉蔵爺さんに話をしに行きます。
私の祖父・倉蔵爺さんは
銀座で洋服店を営み布地問屋も
経営していた職人気質の人です。
お固い爺さんでしたが
身を固める覚悟をした親父と母を
快く歓迎してくれました。

親父は突然、母に言います。
「結婚するなら舞台を辞めてくれないか?
ずっと家に居てほしい」

母は華やかな舞台の世界にいましたが
いともあっさり芸能界を辞めます。

後に母に聞きました。
人気があって華やかな場所にいたのに
何故、あっさり辞められたのか?
母は「お父さんが辞めてくれって云うんだもん。
それ以上何があるの?未練なんかないよ!
お父さんと芸能界、どっち取る?
お父さんでしょ!」

何とも潔いお答え!感心しました。

ただ、辞めるにあたり
所属していた東洋興業と
母の母、つまり祖母がかなり
反対したのも事実です。

ところが母方の祖父である
栄吉爺さんは辞めるのに賛成でした。
決め手は親父の顔だそうです。
「伸介は良い顔してる。あれは絶対に出世の相だよ!
あの鼻の形が天下取りの相だ!」
と推してくれました。
栄吉爺さんは神職をしていましたから
何かを感じていたのでしょう(^-^)
結果は正解でした。

母が芸能界を辞めると収入は
ガタ減りです。
それでも母は貧乏を気にしません。
「あの時代はね、皆、貧乏なの!
苦労したなんて言葉は嫌いだね!
皆、大変な時代なんだよ!
皆、大変だから苦労じゃないね!」
何ともお強い発言(^_^;)

それでも母はてんぷくトリオの
リーダーとなった親父の為に
色々な劇場やプロモーターに
親父の仕事を頼みに行きます。

横浜国際劇場の支配人だった方から伺った話です。
「君(二代目三波伸介)のお母さんがね
てんぷくトリオ連れて来て、
ウチの旦那がリーダーやってるから使ってくれって頼むんだよ。
俺は洋子ちゃん(母)が出てくれるなら使うよって言ったら
三波さん(親父)が、
もう女房にしたので舞台に出しません、
って言うんだよ!
お母さんも絶対出ないって言うし(笑)
お母さんの熱意に負けて、
まだ売れる前のてんぷくトリオを使ったけどね(笑)」
気合が入ってます(笑)

母は家庭に入りました。
浅草や新宿の舞台仲間の間では
「河井洋子は忽然と消えた」と
噂になりました。
ホンの一握りの仲間しか
親父と母が結婚したのを知りません。

結婚後、てんぷくトリオは
爆発的に売れて一時代を築きます。
この辺は割愛します(笑)

母は自分の芸能活動より
親父に人生を捧げる事にしました。

家族

母の話も大詰めです(笑)
今日の話は少し暗いかも知れません。
ご勘弁下さいm(_ _)m

母は家庭に入り
芸能界とは殆ど繋がりを持ちませんでした。
親父と母が結婚したのを知っている人はごく一部の人。
浅草系なら
渥美清さん、谷幹一さん、関敬六さん東八郎さんなどの人。
新宿系なら戸塚睦夫さん、伊東四朗さんは勿論知ってます。

家庭に入り、私が生まれ
色々な事がありましたが
楽しい人生を母は過ごしていました。

親父の活躍はご承知の通りですが
母は親父の弟子達の面倒を見たりで
内助の功を発揮。
正直、大家族状態で
親父と二人で過ごす時間は無かった様に思います。

仕事は順風満帆ですが、
母は親父の健康が気になります。
病院に行くのがキライな親父に
あの手この手を使い
健康診断に行かせようとします。

昭和57年11月
親父はテレビの仕事を少し減らし
念願だった大劇場での座長公演に
挑みます。
一ヶ月公演は記録的な興行成績を上げて大成功です。
母はここをチャンスと親父に
「パパ(初代・三波伸介)、沢山のお客様が来てくれるんだから、
体調崩して休演なんて出来ないよ!
12月の初旬に体調整える意味で人間ドックに行きましょう!」
親父も
「そうだな、そうするか。
しかし一ヶ月公演やってるとママと舞台に立ってた
新宿フランス座時代を思い出すな」
母は「そうね。あの頃もお休みは無かったもんね」

「お客様の為に」と云う決め言葉で
公演終了後、人間ドックに行く事を
親父に約束させました。

昭和57年12月5日
早く仕事が終わった親父は
一人で新宿の伊勢丹に買い物に行きます。
新宿伊勢丹新館の場所は
母と出会った新宿フランス座の
あった場所です。
伊勢丹の店員さん達は馴染みです。
「あらっ!?三波さん今日はお一人ですか?」
親父は
「うん!実は12月10日はママの誕生日なんだ。
今日はプレゼントを買いに一人で来たんだ。」
親父は嬉しそうに語っていたと
後に伊勢丹の店員さんから聞きました。

昭和57年12月8日
私(二代目・三波伸介)は朝、親父と朝食を食べ高校に行きました。
この日、師走にぽっかり空いた休日の親父。
母はお歳暮の手配の為に
新宿伊勢丹に行く事にします。
「パパはお家で休んでる?」
「うん、休みだからもう少し寝てるよ」
母は弟子達を連れて伊勢丹に行きました。
三時間程で帰宅し
親父が好きな新宿の天ぷら屋さんの
お弁当を買って来ました。

真っ暗な居間の電気をつけると
母は何かにつまづきます。
居間で親父が倒れていました。
巷でテキトーな事を云う方がいるので
母の名誉の為に記します‼

「三波氏が倒れていた時に夫人が買い物に行かず
家に居たら助かったのではないか?」とか
「三波氏は死んだふりするのが得意で
この時も夫人がイタズラと思い気づくのが遅れた」とか!

そんな訳ないでしょう‼

イタズラと本当に倒れているのは明らかに違います!
母はすぐに気づきましたよ!
すぐに救急車の手配もしてます。
確かに母は
「私がいれば良かった!パパを一人にするんじゃ無かった!
パパを一人で死なせた事は生涯、背負っていく!」
と叫んでいました。
しかし複数の医師の判断は
「発作が起きて十数秒で意識を失っています。
例え医師が横に居ても助けるのは難しい。奥様、ご自分を責めない様に」との事です。
母の名誉の為に記しました。

しかし
「この腕の中で死なせたかった」
と嘆いていたのも事実です。

昭和57年12月8日
初代・三波伸介は天国に行きました。
テレビニュースで
「三波伸介夫人」として映し出された母の姿を見て
「あっ‼三波伸介夫人は河井洋子だったのか‼」と気づいて
びっくりしたコメディアンや踊り子さんが沢山いました。
母は親父の仮通夜の時、
心労で原因不明の発作で倒れます。
今だから言えますが
あの時、母も逝ってしまうのでは…
と云う様な倒れ方でした。

奇跡的に母は点滴をぶら下げながら
親父の棺の側に戻って来ました。
今、思うと母と親父、二人きりに
してあげればよかったと思いますが
大勢の弔問に訪れた方がいましたから
それも叶いませんでした。

葬儀告別式には
二千人を超える参列者と
中野宝仙寺前の青梅街道、山手通りには新聞発表によると
五万人を超えるファンの方が
親父を見送ってくれました。

棺の中の親父に泣きながら
話かける母は親父に抱きついて
「パパありがとう!こんなに幸せにしてくれてありがとう!
パパ!幸せをたくさん、たくさん、ありがとう!」
と叫んでいました。

私は少し離れて
それを聞いていました。

早く逝ってしまった親父ですが
母と親父は濃い時間を過ごしたのでしょう。

親父の通夜の日、
母の誕生日でした。
親父の机の上に伊勢丹で買った
ペアウォッチがありました。
手紙付きです!

「ママ、誕生日おめでとう!
たまにはお揃いの時計でもしますか?」

母はこの時計を生涯付けませんでした。
「天国に持っていってパパと一緒につけるのよ!」

申し訳ありませんm(_ _)m
湿っぽくて。
お許し下さいm(_ _)m

それから

長らく母の話にお付き合い頂き
感謝します!m(_ _)m

親父が天国に行ってしまい…
母は人生を考えられなくなりました。

毎日、浴びる程、酒を飲む、
と云う言葉がありますが…
母は毎日、浸かる程、酒を飲んでいました。
前述しましたが、母の酒の強さは
ハンパではありません。
日本酒一升一気飲みは約10秒!
(決してマネしないで下さい)
高度数のウィスキーはストレートでグイグイ!
(良い子のみんなはマネしないでね)
日本酒一晩に八升飲んだり!
(絶対にマネしないで下さい)

そんな酒の強さですから
悲しみを紛らわす為に飲んでも
なかなか身体は壊れません!

「飲み過ぎて早くパパの所へ行くんだよ!」と母は云います。

まだ母も四十代でしたから
私は正直、母に再婚をすすめました。

母は
「あぁ良いよ!再婚してやるよ!
じゃあお父さん以上の相手を探してきな!」

…これはハードルが高いσ(^_^;)

結局、母は生涯、再婚しませんでした。

正直話、酒を一滴もやらない私、
二代目・三波伸介と母は
考え方が合わず良くぶつかりました。
母の晩年は家内が居てくれたので
本当に助けてもらいました。

紆余曲折、波乱万丈な人生を
送って来た母ですが
誠に幸せな人生だったと思います。

母が入院中の病院から連絡が来ました。
「危篤状態なので至急来て下さい」
私と家内は直ぐに直行しました。

医師から
「意識が遠のいていますので息子さん、話し掛けて下さい!」
私は「よぉ!おっ母さん!」と
話し掛けました。
母は薄目を開けてくれました!
医師も「おぉ!意識が少し戻った!息子さん、もっと話し掛けて下さい!」

私は母の顔を覗き込み話し掛け様とすると
母は手を差し伸べてきました。
私は母の手を握りました。

母はハッキリと云いました。

「あらっ!お父さん!やっと迎えに来てくれたのね!」
その場の全員、ずっこけました(笑)

私は「俺はあんたの息子だよ…!」
そう云おうとしましたが
お医者さんがお父さんのフリをして下さいと云うのでそのまま演じました。

母は天国に行きました。
母とはあんなにケンカばかり
していたのにガックリ来ました。
葬儀では私の友人達が
もの凄い号泣をしていました。
みんな母に酒を教えられた人です。
私より友人達の方が号泣してました。

母の棺の側で
私はうたた寝をしていました。
夢に親父が出て来ました。
「伸一(私)、お母さんの棺の中に使い古しの余計な物を入れるなよ!
俺が天国で新品を用意しておくから!
お母さんは身体ひとつでこっちに来させろ!
良いな!」
私は親父には逆らえませんから
云われた通りにしました。
母の棺には先代の弟子達の子供達の
手紙だけ入れました。

告別式を終えて
私はまた親父の夢をみました。
ブルーのスーツを着た親父が
母の手を握り
笑顔で天国に連れて行く夢でした。

喜劇役者の私が
お涙頂戴の話は似合いません。
しかし私が今、ここに居るのは
ご先祖様、両親のおかげです。

母と親父に感謝を込めて
母の話、これにて。






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