二代目三波伸介について 私の喜劇人生 三波伸介一座 ブログ
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私の喜劇人生-7
(コメディ・ライフ)

   
二代目三波伸介

『絵その3』

「阿佐ヶ谷のセザンヌ」と自称していた親父は、
晩年日本画を趣味とし、 自室を改造して六畳の和室を作り、作務衣に着替えて、 多くの筆や顔料を操り、日本画家を気取っていた。
その顔料を画材屋に買いに行かされる役目は私で
しばしば、私は自らの小遣いでは買うことの出来ない
高価な油絵の具をついでに買っていた。
(今になって反省)

『似顔絵合戦』

似顔絵決戦は、ついぞやむ事なく、外国のコメディアンや 物故された日本の名喜劇役者を二人で描いた。
果ては講釈師宜しく、見た事も会った事もない歴史上の人物、
例えば江戸時代の名力士、谷風梶之助、小野川喜三郎、 そして、雷電為右衛門と云った、本物を見た人は生存している訳もなく、 錦絵の中でしかお目に掛かれない人々にまで至った。
これでは、似てる、似てないが判別出来ない。
絵の中にどれだけの演出を加えるかで、見る人の評価が下る。

『力士絵対決』

親父は雷電が五人の力士が一斉に飛びかかる絵を描き、 私は雷電が土俵の柱めがけて、力士をブン投げてる絵を描いて悦に入っていた。
皆は「二人とも上手」で、この件に関わりを持とうとしなかった。
しかし、想像力似顔絵の決戦は、ある日、思わぬ所で決着がつく。

『減点ファミリー』

「減点ファミリー」を御覧下さる方々によく、
「あれは、出てくる人を知ってるんでしょ?」とか
「鉛筆でうすく、下描してるんですよね?」と云われ、
親父は常々、心外に思っていた。

『似顔絵秘話』

親父の名誉の為に云っておくが、
現場に立ち会った私が云うのだから間違いない。
親父はもちろん、誰が出てくるか知らないし、まして
「鉛筆でうすく下描き」なんて絶対にありえない!!
それより、絵を描かれる方、特にプロの絵描きの方々は
必ず気づき、驚かれる。
子供と対面し、似顔絵を描く。パネルは真ん中にある。
つまり、横向きで真正面の似顔絵を描いているのだ。
これを読まれた方、是非、試して頂きたい。
横から描くだけでも大変な「芸」なのです。

『新幹線にて』

それは、さておき。
或る日、親父と共に新幹線に乗っていた。
親父は乗り物に乗ると普段のハードスケジュールの為、 すぐ寝てしまう。
寝ようと思ったその時、一人の品の良いおばあさんが私達の前に立っていた。
親父にサインを求めに来たのだろうと思った私は
「後程、私が座席の方へ、サインをお届けに上がるので
座席番号をお教え下さい」と云おうとした。
だが、願いは違った。
おばあさんは「こんなご無理を申し上げて申し訳ないのですが…」
と、前置きしての理由はこうだった。

『おばあさんの願い』

第二次世界大戦でご主人は出征され、戦死。
国の英霊になられた。
留守を護ったおばあさんは、東京大空襲で全てを失い、
愛するご主人の写真も焼失し、自らの記憶の中にしか、 ご主人の姿を見る事が出来ない。
親父への願いは
「どうか私の記憶が確かなうちに、主人の似顔絵を描いて欲しい」だった。

『似顔絵』

東京大空襲を経験している親父は涙ぐみ、
眠いのも省みず「私が描いてあげましょう」と胸を叩いた。
おばあさんの話を丁寧に聞き、時間を掛け、
出来るだけ細かく仕上げた。
親父はニッコリと笑い自信ありげに「お母さん、どうですか?」と
似顔絵をおばあさんに見せた。
おばあさんは、暫くジーッと絵を見ていた。
もの凄く長い時に感じた。
親父はニコニコ笑っていた。

『おもかげ』

おばあさんは、長年たまっていた苦労と喜びが相まってどっと涙が溢れ出た。
すると似顔絵を抱きしめて号泣した。
かすかにしゃくり上げる息の間から声がもれた。
「そっくりです。主人にそっくりです。これが主人です…」
あとは声にならなかった。

『決着…』

私は横でもらい泣きしていた。
親父も喜んでいた。
おばあさんは何度も何度も深々と親父に頭を下げ、
礼をした。
そして「伸介さん、あなたは神様です!!」
これは俺には出来ない芸当だ。
やはり、似顔絵は、親父の方が上手い。


続く




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